お江戸の花火の話。『「たまや〜」って何?』

お江戸の花火の話。『「たまや〜」って何?』

 

隅田川花火大会が台風の影響で延期ですってネ。
しっちゃかめっちゃかになるよりは、それがいいですね。

サテ。夜空に花火が打ち上がる時、我々は「た〜まや〜!」と
叫んでしまうものです。
え?最近は叫ばない?うるせいやい!
叫ばないにしても、

花火=「た〜まや〜!」

というこの図式は、我々日本人のDNAに深く刻まれてしまっているわけです。

でも『たまやってなに?』というのが本日のお話(お江戸の夏の過ごし方、その3)

 

まず隅田川花火大会の歴史から紐解いて参りましょう。

そもそもの起源は享保17年5月27日。
その前年、西日本一帯が飢饉に襲われ、100万人もの死者が出ました。
そこで8代将軍吉宗が、犠牲になった死者への供養、悪病退散を祈り「川施餓鬼(かわせがき)」を目的に花火を打ち上げたのが始まりでした。

その時、花火を作ったのが「鍵屋(かぎや)」という花火屋でした。
以来、花火大会は毎年恒例になっていきます。

そして時は流れ、
8代目鍵屋の手代清七が「玉屋市兵衛」という名前をもらい暖簾分けして、「玉屋」を開きます。「玉屋」と「鍵屋」は江戸の二大花火師として、花火の美しさを競い合うようになります。もうわかりましたね。

「たまや」とは屋号(花火店の名前)だったのです!

花火が見事だったその時に、
「たまやー!」もしくは「かぎやー!」と屋号を掛け声をかけたのです。

歌舞伎の大向こう(見せ場で「成田屋!」と声かけする)と同じで、「いいぞ!やるねえ!」「日本一!」という花火師への賞賛・エールの掛け声なのです。

画面奥の船から花火がまさに打ち上がっていますね。
江戸の花火は、いまよりずっと地味でした。色とりどりの花火が生まれるのは
明治20年以降。それまでは淡いオレンジ一色の「流星」という小さめの花火がメインでした。(それも今と比べると、ですが)

手前には「当屋(あたりや)」という物売りが、宴会を楽しむ屋形船に船を寄せて西瓜を売っていますね。

画面右端、川で水垢離をしているおじさんたちも嬉しそうで、
「たまや!」「かぎや!」と叫んでいるのが今にも聞こえてきそうです。

「たまや」の謎いかがでしたでしょうか?

明日、隅田川花火大会を行かれる方は
ぜひ「たまや!」と叫んでみてはいかがでしょうか?晴れるとよいですね。

ではまた。

 

参考資料:
『江戸時代新聞』大石学
『江戸10万日全記録』明田鉄男
『近世風俗志(四)守貞謾稿』喜多川守貞
『江戸時代大全』稲垣史生
お江戸でござる杉浦日向子
『両国花火之図』歌川豊国
『東都名所 両国の涼』歌川国芳

 

お江戸の極上スパ、銭湯の話

 
 

この暑さ、果たしていつまで続くのか。
何をしなくとも滝のように汗が流れてきますね。
そうなりますと『仕事なんざうっちゃって風呂だ風呂!』
となるのは当世だけではないようでして・・

そんなワケで本日は

『江戸のお風呂のお話』

お江戸の夏の過ごし方、その2とでも題しましょうか。

江戸っ子はお風呂好き。
今のように各家庭ごとに風呂はありませんでしたので、
近所の湯屋(銭湯)に通うのが当たり前でした。

江戸の道路は、今のようにアスファルト・コンクリートではなく、
土や砂利の地面です。しかも町人たちは、裸足に下駄・わらじを履いて生活しているわけですからどうしたって土埃で汚れます。

そうなりゃ
手ぬぐいひとつ引っ掛けて湯屋へGO!です。

それだけでも十分ですが、
女性はボディソープ&スポンジ代わりに、もち米の糠袋を持参しました。
毛切石(脱毛)、ヘチマ水(化粧水)、烏瓜の実(白粉・保湿)
なんかも持って行きました。

日に何度も通うのであれば、一ヶ月入り放題フリーパス「羽書」(はがき)を買うのがお得でした。営業時間は朝8時〜夜8時まで。

二階は休憩所になっていましたので、
湯上りにお茶やお菓子を楽しみながら駄弁ったり、将棋を指したり、芝居や落語のポスターなんぞを見たりして・・・
そしてまた汗をかいたら風呂に入る・・・
それを朝から晩まで延々ループし、日がな一日湯屋で過ごすようなご隠居や放蕩息子もいたようです。

そして
江戸の初期は、ほとんどが混浴(入り込み湯)でした。
寛政の改革により男女別になってゆきます。混浴だった頃、若い娘が男たちからちょっかいを受けないようにと、年配の女性たちが囲いを作ってくれたとか。現代からはちょっと考えられない状況ですが、当時はそれしか手段がありませんのでそういうものだ、と捉えていました。

それに
江戸の風呂は、蒸し風呂でした。洗い場は湯気がもうもうと立ちこめ、中は暗くてほとんど見えなかったと言います。

浴室の入り口を柘榴口(ざくろぐち)と言います。この鴨居の低い入り口を屈んで入りると、浴槽になっています。

ちなみになぜ柘榴口という名称なのかと言いますと。当時柘榴は鏡を磨くために使われていました。

鏡鋳る(かがみいる) →かがみいる →屈み入る→屈んではいる

だから柘榴口。
まじかよ、と思いますけれど
江戸の人は語呂合わせや駄洒落が大好きでしたので、そういう
冗談みたいな渾名で呼んでいたことから定着していったのでしょう。

江戸の湯屋に欠かせない存在として
三助(さんすけ)という職業がございました。
お客様の背中を流す職人です。

垢すり・マッサージでコリをほぐしながら客の話し相手をする・・
江戸っ子の心と体を癒す職人です。

女性客でも三助に流しをお願いすることができました。

↑さて本日の写真たちは

『忘れな三助〜大江戸絢爛湯屋物語〜』の舞台写真。江戸の湯屋『亀の湯』に勤める三助が主人公の物語でした。

ご覧の通り、
ふんどし&前掛けスタイルのお湯も滴るイイ男たちが
元気いっぱい活躍するお話でございました。
(またいつか上演したいですね)


サテ、私もこれからひとっ風呂浴びてくるとしますか。

 

 

参照:
『風呂のはなし』山田幸一・大場修
『入浴と銭湯』中野栄
『江戸入浴百姿』花咲一男
『一日江戸人』杉浦日向子

お江戸の幽霊はどうして足がない?

コウ毎夜毎夜、熱帯夜が続きますと
ひとつ涼しくなるようなお話でも欲しくなるところでございますネ。

そんなワケで。
本日は『幽霊の日』ということに因みまして
『お江戸の幽霊たち』についてお話します。

 

さて本日7月26日がなぜ『幽霊の日』なのかと申しますと
時は文政8年(1825年)7月26日。中村座にて四代目鶴屋南北作の『東海道四谷怪談』が初演されたことから由来しているそうです。

ちなみに『**の日』ってどこのどなたが決めてるのヨ、
と思って調べましたところ、国の機関が定める祝日や年中行事以外では、日本記念日協会によって定められることが多いようです。

しかし『幽霊の日』は当協会HPに記載がないことから、
歌舞伎関係者や歌舞伎を愛する観客たちの作品に対する畏敬の念から『幽霊の日』が定着したのではと推測します。

さて、本題。
現代の幽霊スタイルは足がなく、下半身はうっすらと消えているのが定番となっています。

現代日本でも幽霊は『女性、痩せ型、白い着物』というのがスタンダードなイメージですよね。けれど江戸前期では『男性、両足がある』スタイルがほとんどでした。

いまだ戦の匂いがまだ残っている元禄時代では
戦で負けた武将たち、無念のまま散っていった男たちが『子々孫々まで祟る!』として凶暴な幽霊となって巷に現れました。

しかし徐々に平和な世になっていくにつれて、
『女が出てくる方が怖い』という方向にシフトしてゆくのです。

これは当時の女性たちの
地位の低さ、肉体的弱者として社会で位置づけられていたことから
、女性たちの無念さや執念がある種の『女の霊力』(女は怖い)信仰に結びつき、現在の幽霊スタイルのモトになったのでしょう。

もちろん江戸に住む彼女たちの個々は、
したたかに、力強く、たくましく生きていたことと思います。(そう信じております)けれど、女性全体の地位でみるとやっぱり江戸では社会的弱者であったのでした。

そして
『足がない』スタイルを確立させたのは絵師の円山応挙(まるやまおうきょ)だと言われています。

 

『返魂香之図(はんごんこうのず)』円山応挙。この絵を初めて見た時、彼女と目が合ったように思えて肝が冷えたのをよく覚えています。そしていまだに直視できません。

そして円山応挙
どうして足のない幽霊を書いたのか・・・

とある言い伝えによりますと____

ある夜の応挙の夢に、亡き妻が現れます。
妻には足がなく、宙を漂っている・・。
応挙はその姿を忠実に描いたのだと言われています。。。

最後に。
私の個人的にすきな幽霊図をご紹介します。

月岡芳年(つきおかよしとし)の
『幽霊の図』

子を抱いた母親の幽霊。
死してなお我が子を抱き続けるその背中から目が離せないのは
おそろしいからなのか、うつくしいからなのか。

思わず両手を合わせ成仏を願ってしまうのは私だけではないはず。

 

参考文献:
『返魂香之図(はんごんこうのず)』円山応挙
『幽霊の図(肉筆画)』月岡芳年
『妖怪図巻』多田克己・京極夏彦
『江戸のアンダーワールド』コロナ・ブックス

お江戸の夏の過ごし方。

 

『平成最後の夏』は酷暑でございますねエ。毎日お暑い中、いかがお過ごしですか?

『クーラーガンガンに効かせてアイスクリーム食べちゃう!』
『プールに泳ぎにいく!』
『キンキンに冷やした麦茶(麦酒)を飲みながら甲子園を応援!』

平成(現代)特有の夏の楽しみ方ですよね。最高ですよね。
しかしクーラーもなきゃ、アイスもないし、江戸の頃。
江戸の人々(町人)はどんな風に夏を過ごしていたのでしょうか?

 

本日はそいつをチョイとご紹介します。

基本的に、江戸の町人たちはみんなフリーター(自営業)です。
大店に奉公している方や武士を除いて、ほぼ大多数が自営業。
(手に職系を習得して働くというのは若干別のお話ですが)

なので

『働きたいときに働き、休みたい時はとことん休む』

という現代人が聞いたら羨ましさで胸が破り裂けちゃう自由さを
持っているのです!

もちろん社会福祉も保障もないので、すべて自己責任。
食い扶持に困っても『そん時はそん時』と考える江戸っ子は多かったことでしょう。

そんなわけで
『夏の前に働いて、暑い時は遊んじゃう(or働かない)』が江戸人の基本スタンスでございました。

楽しんじゃうレベルにも色々あります。
大きく分けて
お金を出して楽しむ派、出さないで楽しむ派です。

バカンスを楽しみたいパーリーピーポー向けには
『舟遊び』
リッチに花火クルーズです。

船をレンタルして、川の上から花火を満喫。お洒落してお酒飲んで楽しんじゃう。ロマンチックな夏の夜を過ごします。風流を楽しみたい心持ちというのは、江戸からそう大きく変わらないもんだなぁと思います。

 

そして
お金がなきゃないで楽しむのがお江戸スピリッツ。

のんびり楽しみたい庶民向けには『夕涼み』です。

 

川端の縁台(ベンチ)に座って、打ち水をして冷水を飲んでひんやり涼しく過ごします。

冷水(ひやみず)は、冷たい井戸水に砂糖と団子を入れた
江戸版タピオカジュース(ちょっと違うか・・)のようなものです。

喉の渇きを癒しながら、お天道様が沈んでいく様をのんびり見守ります。

冷水の他にも甘酒なども夏でも売っていたそうです。
熱中症対策とまではいきませんが、夏バテ予防、滋養のために飲んでいました。

現代でも
甘酒は『夏バテ防止栄養ドリンク』として見直されてますよね。
『八海山の甘酒』おすすめですよ!
甘酒は甘さが強くて苦手だったのですが、これは美味です。

ちなみにこちらのCM、我が蜂寅企画のプロデューサー板倉がナレーションしていますよ。
(ダイレクトなマーケティングを展開!蜂寅にはビタイチ入りませんけれども笑)

 

ところで。
上でご紹介した浮世絵、なんか妙な形してると思いませんか?
全体が楕円形で下部分がえぐれたように欠けている・・この形何かに似てませんか?

そうこの浮世絵自体が『うちわ』なんですよ!
お、おしゃれ!
お気に入りの絵師の団扇で涼む・・なんてイイじゃあありませんか。

 

 

江戸人の夏の過ごし方、いかがでしたでしょうか?
他にも楽しみ方はまだまだあるので、いつかまたご紹介したいです。

まだまだ酷暑が続くそうです。
江戸人の『夏はそんなに頑張らない』ゆるゆるスタイルをほんのちょっぴりでも参考にしてみてはいかがでしょうか?

 

参考文献
『大江戸復元図鑑<庶民編>』笹間良彦
『江戸商売図案』三谷一馬
『江戸庶民風俗図絵』三谷一馬
『夏けしき昼夜どけい ひる七ツ時』歌川国芳
『美人子ども十二ヶ月シリーズ 皐月川開 両国ばし』歌川国芳

 

お江戸の話<蜂寅企画中尾のblog>

お初の皆様、どうもはじめまして。
ご存知の皆様、いつもご愛顧ありがとうございます。

脚本家中尾知代のnoteにご来場ありがとうございます。星の数ほどあるblogコラムの中から、しかも限りある人生の貴重な時間をここを読むことを
選んでくださって心底ありがてえ限りでございます。
(拝んでしまいます!)

改めて簡単に自己紹介します。
わたくし、蜂寅企画という劇団で脚本と主宰をしております。

時代劇(江戸)しかやらない、ちょっと風変わりな団体でして、毎回オリジナルで戯曲を書きおろししています。

ここでは、
江戸・時代劇のことを言葉にしてゆこうと思っております。

戯曲だけでは書ききれない江戸のことを
みなさんと共有してゆきたいなあという心持ちです。

愉快でおもしろく、うつくしく愚かでやさしい江戸。

けど悲しいかな、門戸が狭い。どうしたって敷居が高い。
勉強しなきゃわからないことがあると思うと堅苦しく、気が引けてしまう。
『好きな人は好き』という姿勢はかなり勿体ない。
時代劇好きな方にも、そうでない方にも楽しんでもらえるように
気安い、気楽な読み物を書いてゆこうと思います。

きっとそのうち映画・小説・日々のあれこれを書き出すと思います、絶対。

日々のお慰みに。
どうぞお付き合いくださいませ。

あなた様のハートに響きましたらこれ以上ない幸いでございます。

 

公式HP:蜂寅企画

Twitter@8tora_nakao